【救い小屋】江戸期の災害における救済施設とは?

『救い小屋』

3月11日ですね。9年前のあの日のことは、昨日のように思い出されます。その後も各地で大地震や洪水、台風被害などさまざまな災害が発生しています。

 

今日の画像は、渡辺崋山画『荒歳流民救恤図(こうさいりゅうみんきゅうじゅつず)』という巻物から。こちらの国会図書館デジタルコレクションから巻物の絵がご覧になれます。→『荒歳流民救恤図』

 

この絵は『天保の飢饉』の救い小屋を描いたものです。救い小屋とは、被災者救済のために幕府や藩が建てた施設のことです。巻物をみていくと、炊き出しや怪我人の救護なども見受けられます。

 

『天保の飢饉』とは

1833年から始まり、1836年にかけて最大規模化した飢饉(年数に諸説あり)。江戸四大飢饉の一つ。原因は、洪水や冷害の大凶作だそうで、そのような災害(洪水など)は現代に生きる私たちにも人事でないように感じます。

 

『大塩平八郎の乱』というのを聞いたことがあるかもしれません。
この大塩平八郎は、大阪の与力という役人でこの『天保の飢饉』の際に、苦しんでいる庶民を救うため決起しました。

 

1833年、天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)が起こります。全国の村や町は、飢(う)えに苦しむ人であふれました。しかし、幕府の役人や商人たちは、飢饉には目もくれず、あいかわらず私利私欲に走っていました。世の不正を知った以上、行動を起こさねばならない。大塩はついに決起します。1837年(天保8年)2月19日、大塩は仲間の与力や弟子たちとともに、不正を行う役人や商人を討つための戦いを起こします。幕府の不正をにくみ、庶民(しょみん)を救うために、大塩はあえて激しい行動にうって出たのです。 引用『NHK for School』

 

彼は私の好きな漫画『風雲児たち』にも、大塩平八郎が登場します。そこで描かれていたのは、大塩平八郎は『陽明学』を大事にし『知行合一(ちこうごういつ)』という、

 

「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」引用wikiより

 

というすごい考えのもと、彼は彼の『大塩平八郎の乱』を実行したということです。
庶民が苦しんでいることを知ってしまった以上は、役人が不正を行っていることを知っている以上は、行動を起こさなければならない。ということなのでしょう。

 

…ちょっと話がそれましたが。
どんなに科学が進歩したとしても、天災や感染症などはいつも時代にも起こります。災害が起こるたび、困っている人にどれだけの救済ができるか、想像力を働かせられるか。という考えが毎回、進んだ社会になればいいなと思います。自己責任論は本当にやめてくれと思います。


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